華麗なる王朝の美を受け継ぐ -西陣織の帯-
振袖や留袖などの礼装から普段着である小紋や紬、簡易装の浴衣まで、着物になくてはならないものが「帯」です。 現在の「西陣織」は、京都・西陣で生産される先染(さきぞめ)の紋織物全体を指します。 現在の西陣織の前身となる織物産業の始まりは、古代にまで遡ります。 安土桃山時代には中国から伝わった技術を取り入れ、江戸時代にも幕府の元で高級織物産地として発展を遂げました。 現在、帯といえば西陣といわれるほど、帯地が有名な西陣織で。その原点は平安朝の優美な宮廷衣装でした。
衣服を留めたり道具を持ち歩くために巻いていた帯は、次第に実用性だけでなく装飾性も重視されるようになりました。時代が進むとともに、豪華なものや幅の広いものもつくられるようになり、着物と同様に格のある存在になっていきます。
日本の服飾文化・歴史を語る上で欠くことのできない帯。中でも高級絹織物産地として名高い、帯の生産量日本一でもある「西陣織」の種類とその歴史についてご紹介いたします。
西陣織の種類
「先染の紋織物」とは、先に染色した糸を組み合わせ、織り方で文様をあらわしたもので、単に「織」とも呼ばれます。
糸一本を組み合わせて紋様を織り出すため、綿密な設計や技術の高い職人が必要とされる、とても手間暇のかかる技法です。帯においては格式が高いとされています。
西陣織では長い歴史の中で多彩な織り方が発達しました。西陣織の種類の一部をご紹介いたします。
●緯錦(ぬきにしき)
よこ糸によって紋様を織り出した、「錦」の一種。
「錦」とは、何色もの色糸を使って文様を織り出した多彩色の紋織物の総称。
●経錦(たてにしき)
錦のうち、たて糸によって地の文様を織り出す品種。
●綴(つづれ)
「綴機(つづればた)」という織機で「爪掻(つめがき)」という方法で、たて糸が見えない高い密度のよこ糸のみで模様を織り出す品種。錦に含まれる。
●緞子(どんす)
やわらかく光沢感のある繻子織(しゅすおり)に精緻な文様を描いた重厚な品種。
●朱珍(しゅちん)
緞子と同様に繻子織の組織を用いた品種。
●紹巴(しょうは)
たて糸、よこ糸ともに撚りの強い糸を用いる品種。杉綾状や山形状の地紋を持つ。
●風通(ふうつう)
断面が二重、三重になっている、多層織物と呼ばれるものの一種。それぞれの層を異なる織り方にし、交互に表に出すことで模様を表現する。
●捩り織(よじりおり)
たて糸とたて糸との間に隙間がある品種。紗(しゃ)・羅(ら)・絽(ろ)などの種類がある。通気性が良い。
●本しぼ織(ほんしぼおり)
強い撚りをかけた糸を交互に織り込み、生地にしぼを作った品種。
●ビロード
横に針金を織りこみ、織り終えたあとに引き抜いて輪を作ったりたて糸を切って起毛させたりする有線ビロードを用いた品種。なめらかさと光沢が魅力。
●絣織(かすりおり)
部分的に防染した糸で織ることで紋様を描いた品種。
●紬(つむぎ)
真綿に撚りをかけた紬糸を用いた品種。
以上は国の伝統的工芸品に指定されている12品目です。
そのほかにも、糸錦などの錦類、色緯糸(いろよこいと)を用いて刺繍で縫い取ったような文様を織り込んだ「唐織」(からおり)、金箔や金糸などで模様を織り出した豪華絢爛な「金襴」(きんらん)など、高級紋織物として帯地や打掛などに使われるものが多数あります。
(参考:西陣織工業組合「西陣織の品種」)
西陣織で特に有名なのが、金糸や銀糸をふんだんに用いた豪華絢爛な袋帯。
高い技術により緻密な紋様が描かれた振袖などの礼装にふさわしい美しい帯は、古く貴族の時代から愛され続けています。京都の織物の歴史と「西陣」の誕生
大陸から現在の京都に移り住んだと言われる秦(はた)氏らが、農耕・治水のほか、養蚕・織物など大陸の進んだ技術を日本に伝えました。
太秦にその名を残す秦氏ゆかりの史跡には、国宝・弥勒菩薩像で有名な広隆寺や、通称「蚕ノ社」(かいこのやしろ)と呼ばれ蚕をまつる神社があります。
平安時代に入ると、それ以前から織物がつくられていた京都に宮廷の衣服を管理するための役所、「織部司(おりべのつかさ)」が置かれます。
織部司の近辺の職人たちは高度な技術を持ち、皇族の衣服や室内丁度に用いられる綾や錦など、高級絹織物を発展させました。
このような織物は後に「有職織物」(ゆうそくおりもの)と呼ばれるようになり、その典雅で整った趣の文様も「有職文様」として、今日も礼装の着物や帯の図案として用いられています。
平安時代後期に朝廷の支配力が弱まり、官営の工房が難しくなると、織部司の職人たちは近隣の大舎人町に移り住み「大舎人座」(おおとねりざ)と呼ばれる民営組織を形成します。高品質として評判の大舎人座の絹織物は、朝廷だけでなく公家や武家からの注文を受けるようになります。
応仁の乱(1467年~)のとき、京都の織物職人たちは一時的に京の外に逃れます。戦乱が終わると京都に戻り、織物業を復活させました。その中には海外貿易で栄えていた堺などへ疎開し、中国伝来の新しい織物技術を持ち帰った職人もいました。
応仁の乱で西軍の本陣が置かれていた場所だったことから、戦前から織物の町として栄えていた京都北西部の地域はこの頃から「西陣」と呼ばれるようになりました。明治維新と西陣の近代化
江戸時代後半の贅沢を禁じる奢侈禁止令、明治維新・東京遷都により、混乱と不況に陥ります。
しかし、人々は新政府や京都府による様々な近代化政策を受け入れ、いち早く復興に向かいます。
西陣では明治二年(1869年)に西陣物産会社が設立され、明治五年(1873年)には京都府から三人の織物伝習生がフランスのリヨンへ留学に向かいました。
その伝習生が持ち帰って伝えたのが、現在も西陣の紋織物に使用されるジャカード織の織機でした。
同年、日本政府が初めて正式参加したウィーン万博では美術工芸品として西陣織が出品され進歩賞を受賞します。
西陣が世界に紹介されるとともに、ヨーロッパからの技術導入や市場調査を行うことで再び織物の中心地として復活を遂げる契機となりました。
大正から昭和時代にかけては、高級帯地に伝統的な技法を活用しつつ、一方で機械生産による大衆向け製品の開発にも力を注ぎ、西陣の町は今日に到るまで常に進化を続けています。まとめ
西陣の町は京の都にあって度々歴史の波に翻弄されましたが、辛抱強く苦難を乗り越え、王朝時代からの伝統技法を受け継ぎながらも、新しい技術を積極的に取り入れ揺るぎない地位を築いてきました。
江戸時代以降、次第に幅が広くなり着物とのコーディネートとして装飾的な役割が強まった帯は着物と並ぶもうひとつの主役です。
西陣ならではの高度な技術に裏打ちされた重厚感あふれる高級帯地は親から子へ、子から孫へと家族代々継承されるほどの優れた芸術作品ともいえます。
古来より高貴な人々に愛された華麗な織文様の西陣織の袋帯は、晴れの日のお嬢様の振袖を一層格調高く美しく輝かせることでしょう。