着物の町「十日町」と「十日町友禅」の振袖 | 振袖ハクビ

着物の町「十日町」と「十日町友禅」の振袖

織物の町として千年以上の歴史を持つ新潟県十日町市。
古代より十日町周辺で織られていた麻織物は、高級織物として皇族や貴族に献上されていました。
室町時代から江戸時代にかけて改良を重ねた麻織物は、武士の式服に指定されるほど需要が高まり、江戸時代後期には絹織物の技法も確立されました。
そして、多様な染織技法を発展させながら「十日町絣」、「十日町明石縮」といった絹織物も生まれました。

現代では、高度な伝統技術と合理的な生産体制を融合し、ひとつの町で様々な種類の着物を生産する、日本有数の着物産地として知られています。
なかでも、昭和三十年代後半から生産が本格化した友禅染は「十日町友禅」の名で華やかな染の着物を生み出し、十日町は成人式の振袖の主要産地としても知られるようになりました。

織物の国、越後

十日町の雪景色

かつて越後の国と呼ばれた新潟県の、十日町とその周辺の塩沢町・六日町(現・南魚沼市)、小千谷などでは、古くから織物が盛んでした。
その歴史は飛鳥時代まで遡り、「布」といえば越後の麻布を指すほど、上質な麻織物の産地として知られていました。

聖武天皇の天平勝宝年間に朝廷に献上された越後の麻布は「越布」として現在も奈良正倉院に保存されており、平安時代中期に編纂された『延喜式』にも献上品としての記録が残っています。
このような麻布は、細い麻糸を平織にした織物で、現在その伝統的な製織技法が国の重要無形文化財に指定されている「越後上布」(えちごじょうふ)の原型といわれています。

「上布」とは上等の麻織物の意です。本来麻には大麻、亜麻などの種類がありますが、越後上布は苧麻(ちょま)というイラクサ科の多年草(別名「からむし」)を原料にします。
現在わずかにつくられている越後上布は、苧麻の茎の皮をはぎ乾燥させた青苧(あおそ)を手で紡ぐ、苧績み(おうみ)と呼ばれる糸づくりから始まります。
青苧を手で細かく裂き、口に含みながら撚るという方法で、一反分を績むのに三か月以上かかります。
そして、手作業(手くびり)により絣の模様を付けてから糸を染め、伝統的な手織りの地機(別名:居座機(いざりばた))で、さらに三か月以上かけて織り上げた後、雪の上に広げて太陽にあてる雪晒し(ゆきざらし)を行って仕上げます。
紫外線と雪の水分と空気中の酸素やオゾンによって色目が落ち着き、白い部分はより白くなるといわれます。

昭和三十年に越後上布とともに重要無形文化財に指定された「小千谷縮」は緯糸に強い撚りをかけ「しぼ」(凸凹)のある縮地にした越後上布で、織り上げてから糊を落とし「しぼ」を出すための「湯もみ」を手作業で行います。
一反の織物をつくるために、まさに気が遠くなるような時間と手間を要するにもかかわらず、その技術が長い歴史の中で途絶えることなく受け継がれてきた理由は、越後の国と雪との深い関係が考えられます。

十日町、塩沢、小千谷などの魚沼地方は古くからの豪雪地帯で、積雪によって屋外での生活が制約される時期が長く、その間、農村では機織りや藁仕事などの副業が営まれてきました。
特に、農村の女性達の間では機織りが冬場の主要な内職となります。
雪に閉ざされた多湿な気候が糸づくりや機織りに適していたこと、雪解け水からなる豊富な軟水が染色に最適だったこと、さらに雪国の人々の持つ生来の忍耐強さが繊細な手仕事に向いていたことなども加わって、独自の豊かな織物文化が育まれました。

幕末の天保八年に出版され、雪国越後の自然や暮らしを紹介した『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)には、次のような言葉があります。
-雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に晒す。雪ありて縮あり-
まさに、雪の恵みを生かした越後の織物文化は現代にも着実に引き継がれ、いまなお多くの人々が染織に携わり、日本の着物産業を支えています。

 

十日町の着物の歴史

農村の女性たちの家内工業として発展してきた越後の麻織物は、室町時代には越後布として幕府公式の夏の礼装に指定され、戦国時代の越後領主であった上杉謙信も当時の正親町天皇に献上するなど、歴史資料からも重要な特産品であったことが確認できます。
高価でありながら軽量で、信濃川の水運を利用した輸送に最適な産業であったことも、越後布の発展に貢献したと考えられます。

江戸時代の寛文初期、小千谷地方に来住した播州(兵庫県)明石出身の堀次郎将俊は、それまで平織りの白布であった越後布に、明石でつくられていた「明石本縮」のように強撚糸を用いて布を縮ませる技法や縞・絣といった紋様を織り出す技法など改良を加えた縮布を開発しました。

越後で生まれた縮布、「越後縮」は江戸幕府御用縮として武士の式服になるなど、需要が高まりました。生産地の十日町をはじめとする魚沼地域では縮布市が毎春開催され、各地の商人が集まりたいへん賑わうようになりました。

『北越雪譜』の著者、鈴木牧之(すずきぼくし)自身も、塩沢で生まれた越後縮の仲買商人でした。
『北越雪譜』巻之中では越後縮の素材や機織り、晒しの方法、流通について詳述されています。
各地の商人たちがもたらす最新の情報を吸収しながら、改良を重ねた新しい商品を開発する、織物の町・十日町の先見性の高さは、この頃からすでに形成されていたのかもしれません。

やがて、江戸時代後期になると、十日町は麻織物から絹織物生産への転換期を迎えます。幕末の文政十二年(1829年)、京都西陣より十日町に来住した織物職人の宮本茂十郎は、原始的な地機より効率の良い高機(たかばた)を取り入れ、透綾(すきや)という絹縮の織り方を伝えました。

従来の麻縮の技法を生かしながら絹糸を使って織られた絹縮は、その後の十日町における絹織物の発展の礎となり、現在も十日町市を中心に織られている先染めの絹織物「十日町絣」(別名「十日町紬」)や明治時代に開発され盛夏の絹縮として大正初期に爆発的な人気を博した「十日町明石縮」などが生み出されました。

大正初期には動力を用いた力織機が導入され、さらに近代化が進んだ昭和時代に秋冬物の絹の白生地生産が盛んになると、十日町の織物産業は冬場のみならず通年生産へと展開し、主力商品も麻織物から絹織物へと移行していきました。

第二次大戦後に一時的に絹織物生産が禁止されますが、昭和二十四年から再開され、昭和三十四年には染めと織りの技術を組み合わせ、地中海のマジョリカ島の陶器のように明るく多彩な色使いの「マジョリカお召」を開発し、大流行させました。
こうして、時代の変遷や戦争などの困難に見舞われながらも、十日町は常に柔軟に進歩を遂げ、その織物文化を今日まで守ってきたのです。

 

十日町友禅の振袖の魅力

昭和三十年代の後半になると、十日町は「先染織物」から「後染織物」へと再びの転換期を迎えます。
それまでは縮に紬絣、お召のような糸を先に染色してから織る「先染織物」が主体でした。

しかし、黒地に多彩な模様を染める略礼装用の縮緬の絵羽織が開発され「PTAルック」として人気を博すと、白生地に染色する「後染織物」が主軸となり、昭和50年代初めには十日町は西陣・丹後に次ぐ我が国第三位の絹織物生産地になりました。
高度経済成長期とも重なり、着物の需要が普段着から高級品へと移行していったこの頃から、後染着物として特に多彩な模様の表現が可能な友禅染を用いた振袖や留袖、訪問着などの生産も盛んになっていきます。

江戸時代の元禄年間に宮崎友禅斎によって考案された友禅染は、京都に始まり、前田家の城下町で友禅斎が晩年を過ごしたといわれる加賀、そして首都・江戸で発展しました。それぞれ「京友禅」、「加賀友禅」、「東京友禅」として知られています。
三大友禅と呼ばれるこれらの産地と比べ、その歴史はまだ新しいものの、長年継承されてきた伝統技術と常に時代の流れを読む柔軟さで、十日町は独自の商品改良や合理的な生産体制を見事に築き上げました。

その最大の特徴は、完全分業制の京友禅や作家主体の加賀友禅・東京友禅と異なり、「織り」「染め」「絞り」「友禅」「刺繍・箔」まで全ての工程をひとつのメーカーで行う一貫生産システムにあります。
これによって、高品質を維持しながら多種多様な着物を効率的に生産することが可能となり、後継者不足に悩む着物業界の中でも人材育成を続けながら、その伝統技術を守ってきました。

現在、振袖の主要産地としても知られる十日町では、お嬢様の振袖により一層の華やかさ、愛らしさを加える絞り染めや刺繍、金彩加工まで、デザインから一貫してひとつのメーカーで行っています。
特に絞り染めは、京都や愛知県の有松・鳴海発祥の伝統的技法だけでなく、生地を染めた後に重ねて絞り染めをする「おぼろ染め」など十日町のメーカーが独自に開発した技法も組み合わせています。
古典柄を描いた友禅の上にさらに繊細な技を加えた振袖は、まさにお祝いの日にふさわしく華やかで格調高いものとなっています。

 

まとめ

悠久の歴史の中で、常に創意工夫を重ね進化を遂げてきた十日町は、素朴な風合いの先染織物と、振袖や訪問着など華やかな後染織物の技術の両輪を併せ持つ全国屈指の着物の総合産地です。
近代的な技術を取り入れながらも、雪国の人々によって大切に受け継がれてきた繊細な手仕事を基盤にし、丹精込めてつくられた十日町友禅の優美な振袖は、二十歳の門出や様々なお祝いの日を典雅に演出し、幸多き思い出を彩ることでしょう。

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